南仏の記憶を味わいに込めて
南仏の記憶を味わいに込めて

南仏の記憶を味わいに込めて

ケーキの物語



How it started
はじまり

「最初にお届けするお菓子は何がいいだろう?」

アトリエ KOTOで、これまでの歩みが刻まれたレシピノートを紐解きながら、私たちは記憶の中の忘れられない味を探していた。

高級食材に頼らない料理を提供したい。

まず立ち返ったのは、私たちが大事にしているモットーだった。

ここでいう高級食材とは、Aランクの和牛やマグロなど、ランク付けされたものを指す。それが悪いとは思わない。だけど私たちは、一般家庭でもたやすく手に入る素材で勝負したい。どんな身近な食材からでも最高の味を引き出すのが、料理人の仕事だと思うから。

それでいて、大切に、健康的に育てられていて、美味しいもの。夏の幕開けを感じられるものなら、なお望ましい。

私たちが求めるそんな食材は、どこかに存在するのだろうか?




The mad scientist
農業栽培はサイエンス

瀬戸内海を望む広島県尾道市の生口島で、レモン農家を営む「citrusfarms たてみち屋」の菅秀和さんからメッセージが届いたのは、そんなある日のこと。

「農業栽培はサイエンスだ」と語る菅さんは、今まで常識とされてきたことを疑いながら、「食べて美味しいレモン」を生み出すべく、チャレンジを繰り返している。同じく食文化を担う者として、その姿勢にはリスペクトしかない。

「余計なことをしない」

菅さんは、自身のこだわりをそんな言葉で表現する。つまり、無駄な肥料を使わないということだ。そのため、土壌を分析して作った「土のカルテ」をもとに、「食べて美味しいレモン」に必要な栄養素の適切な分量・配合を科学的に算出し、ミネラルを中心とした環境を整えていくという。まさに大切に、健康的に、レモンを育てている。

菅さんから学んだ多くの事柄のうち、特に目を開かされたのは、農薬に対する考え方だ。

「農薬は悪ではありません。農作物を殺虫したり殺菌するためのツールに過ぎないのです」と言う菅さんは、農薬を使うこと自体は否定しない。だから、化学資材を使わない「ノンケミカル」のレモンも作るが、化学資材の使用を慣行の半分以下に抑える「ローケミカル」のレモンも作る。

私たちは「無農薬」という言葉に弱い。だけど、それが直ちに健康と言えるのか、そして味をよくすることに繋がるのかは、疑問の余地が残る。そもそも美味しさとは、自分自身の体が感じるもの。私たちは目先の文字情報に踊らされて、そのことを忘れているのではないだろうか? 菅さんのレモンはそんな時代に一石を投じている気がした。

「今あるレモンの在庫を東京のアトリエに送ってほしい」

気づくと菅さんに連絡していた。菅さんが丹精込めて育てたレモンのお菓子は、今という時代を問い直すことにもなるに違いない。




Fête du citron
南仏の記憶

20世紀のフランス文学を代表する大巨編、『失われた時を求めて』。その作中には、主人公がプチット・マドレーヌを紅茶に浸して味わう有名な描写がある。彼は甘やかな芳香に誘われ、幼き日に同じようにプチット・マドレーヌを食べた過去を、青天の霹靂のごとく思い出す。

「プルースト効果」。菅さんから届いた段ボールいっぱいのレモンと対面した瞬間、のちに著者であるマルセル・プルーストの名前を取ってそう呼ばれるこの現象に襲われた。アトリエを包み込むレモンの優しい香りにいざなわれて思い出したのは、南仏のレストランに勤めていた日々の情景だ。

南仏の人々にとって、レモンはとても身近な存在だ。冬が終わると、レストランの厨房やテーブルはもちろん、ごく普通の家庭の中でも、その姿を目にしない日はない。

とりわけ忘れがたいのは、南東国境に位置するマントンで毎年2月に開催されるFÊTE DU CITRON(レモン祭り)に、足を運んだ日のこと。太陽の光が燦々と降り注ぐ海辺の街を、150トンものレモンが埋め尽くし、黄色く染め上げる。この地で生きる人にとって、レモンがどれほど暮らしに密接した果実であるかを、思い知らされたものだ。

レモンの収穫は春先で終わる。だけど、日本でいちばん求められる季節は夏だという。うだるような暑さがもたらす疲労を、取り除いてくれる清涼感があるからだろうか。いずれにせよ、夏のイメージが強いレモンは、私たちが探していた食材に違いない。菅さんのレモンと対面し、そう確信した。




Confiture
とっておきのジャム

「このレモンで何を作るべきだろうか?」
試しに半分に切ってみると、驚くほどの瑞々しさが感じられた。

レモンのお菓子と聞くと、TARTE AU CITRON(レモンタルト)を思い出す。フランスであれば、スーパーマーケットから星付きのレストランまで、どこでも扱っている定番のケーキだ。レモンの風味がよく効いていて、大好きなお菓子だけど、菅さんの瑞々しいレモンを余すことなくまるごと味わうには向いてない。

「だったら、レモンジャムをつくろう」
直感的にそう思った。

ジャム作りは、想像以上に時間と手間がかかる。まず、菅さんから届いた約400個のレモンを半分にカットして全て搾る。搾り切ったレモンは、包丁でひとつひとつ果肉を取り除いて果皮のみにし、水を張った鍋で沸騰するまで火にかける。この作業を5回ほど繰り返しながら、砂糖を加えてゆっくりジャムの状態にしていく。

途方もない工程を前にし、後悔しなかったかと言えば嘘になる。だけど、手間を惜しまず丁寧に作ることは、私たちが料理人として一番大切にしていることのひとつ。それはお菓子作りでも変わらない。

長い時間をかけて、とろとろに煮込まれたレモンは、とっておきのジャムになった。色から香り、粘度まで、最初の状態とはすっかり姿を変えたその贅沢なジャムを見て思う。

「これをガトー・ド・ボヤージュに練り込むのはどうだろう?」

たちまち、まるごと一本を大切な人と切り分けて食べる、お客様の姿がまぶたの裏に浮かんだ。




Gâteaux de voyage
ガトー・ド・ボヤージュに込める想い

17世紀のフランス。ブルターニュとヴェルサイユ宮殿を年に数回行き来していたセヴィニエ侯爵夫人は、ある日パティシエにこう命じたと言われている。

「旅の途中でも食べやすく、すぐ傷まないケーキを用意するように」

かくして生まれたのが、「旅行中にうってつけの焼き菓子」を意味する「ガトー・ド・ボヤージュ」だ。そのコンセプトは単純明快。パントリーの定番材料で作られ、常温で2週間ほど保存がきくこと、カットした状態で包装され、旅先で気軽に食べられること、そして、グループでシェアするのに適していること。レモンジャムを練り込んだケーキは、まさにガトー・ド・ボヤージュそのものだ。

日本に古くから息づく、手土産文化にも馴染むお菓子だと思う。家族や友人をはじめ、お世話になった人の元に手土産を持って挨拶に伺い、ときには一緒に食す。手土産自体がちょっとした話題を提供してくれることもあるから、なかなか手に入らないものや、今もっとも旬なものを持っていくのが粋だろう。

旅先のおやつでも、大切な人への手土産でも、このお菓子がかけがえのない時間を育むきっかけになってくれれば、それに勝る喜びはない。




Our recipe
食材がレシピをつくる

私たちのレシピノートには、レモンのガトー・ド・ボヤージュのページも存在した。だけど、その通りに作ればいいわけではない。なぜなら、レシピとは食材が作るものだから。

実際、菅さんのレモンを食べて痛感したのは、年ごとの気候や収穫の時期によって、糖度も酸味も水分量もまるで違うこと。今回のレモンは、2024年4月に収穫されたものだ。2月から3月にかけて最大級に上昇した糖度が少し落ち着き、酸味もまろやかになっている。2024年4月のレモンの個性に合うガトー・ド・ボヤージュのレシピを、試行錯誤を繰り返しながら見つけ出す作業が始まった。

このガトー・ド・ボヤージュの特徴は、しっとりとした食感だ。本来であれば、バターがそのしっとり感を担う。だけど、今回はレモンとの相性を考慮し、バターの分量を減らしたため、卵の比率が増えた。ちゃんと乳化させるためには、混ぜ方と卵の温度調節に細心の注意を払う必要があった。だんだんと今回のレモンに準じたレシピが、確かな輪郭を帯びていく。

とりわけ重きを置いたのは、ケーキを焼き上げる段階で、生地にゆっくりじっくりジャムを染み込ませ、リモンチェロもたっぷり含ませること。結果、焼きたてよりいくらか寝かせた方が断然に美味しい仕上がりになった。




A piece of cake
無限に変わる味わいや食感

「このガトー・ド・ボヤージュは、カットしないで販売しよう」

確かに、カットされたケーキは、具材が均一に入っていて見た目もいい。だけど、どこか機械的でつまらないとも思う。この1本のケーキの中には、レモンジャムが縦横無尽に練り込まれている。ランダムだし、不揃いだと思うかもしれない。だけど、だからこそ、どこを切るかで食感や味が少しずつ異なる。

どっしりと厚く切るのが好きな人もいれば、薄切りを好む人もいるだろう。食べる時間帯やタイミングによって、欲する厚さは変わるかもしれない。


午前中は太く切って濃いめの紅茶とセットで朝食に、夕食後は薄いカットで中国茶やお酒のおともに。比べてみるのもまた楽しい。切り方や合わせる飲み物で、無限に変わる味わいや食感が、このガトー・ド・ボヤージュには秘められている。ジャムにレモンの果皮を少しだけ残した理由も、ここにある。

あなただけの美味しさと出逢えますように。